がんばれ!光星学院!
青森県に初の優勝旗を!!!
・・・・・・えっ?雨で順延!?
な~んだ、テンション下がるわ~!
ナビゲーターのファンキーガッツマンです。
今現在、語り継がれて来ている、
様々な歴史上の人物や、歴史上の出来事。
しかし!
本当にそれが『事実』だと皆さんは言い切れますか?
これまで、当り前のように、
それが『真実』だと語り継がれて来た事が、
実は『真実』ではなかったとしたら?
そう!
歴史には、葬り去られてしまった『謎』の部分があるのです。
この番組は、その名の通り、
そんな『歴史の謎』を、様々な角度から検証し、解明していく・・・
インテリジェンス丸出しの番組なのです!!!
当の本人が完っ全に飽きてようが飽きていまいが、
インテリジェンス丸出しの番組なのです!!!
さて、第五回目の今日は、
この人物にスポットを当ててみたいと思います。
それでは、
後ほど、またお会いしましょう。
『アドルフ・ヒトラーと独裁政権』1889年、
オーストリアの、ドイツとの国境にあるブラウナウ市に生まれる。
幼少期、ヒトラーは聖歌隊に所属するなどキリスト教に深く傾倒して、
聖職者になる将来を思い描いていたという。
しかし、1898年、父アイロスの移住により、修道学校での生活は終わりを迎えた。
2年後の1900年に弟エドムントが亡くなる不幸もあり、
次第にヒトラーは真面目で聞き分けのよい子供から、
父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった。
父アロイスは無学な自分が税関事務官になった事を一番の誇りにしており、
息子も税関事務官にするという野心を抱いていたが、ヒトラーは激しく反発。
父に強制的に工業高校に入学させられた事も、
父への反抗心を強くする要因となった。
この頃、ドイツでは、
ドイツ統一を巡る方針に関して、ふたつの思想主義が存在した。
オーストリアを含める「大ドイツ主義」と、
オーストリアを含めない「小ドイツ主義」である。
学生時代のヒトラーは、大ドイツ主義に深く傾向するが、
これもまた父と反発しあう要因となった。
ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、
ハプスブルク君主国(オーストリア)の国歌ではなく、
「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている。
1903年、
憎むべき父アイロスが病死するも、ヒトラーの問題行動は収まらず、
遂に退学処分を受けた。
家族に勧められ、再び入学した学校でも、様々な問題を起こし、
病気療養という理由で自ら退学する。
1905年、
自由の身となったヒトラーは、芸術を学ぶ為、
単身ウィーンへ移り住む。
この頃、暇さえあれば図書館へ行き、
歴史や科学などについて多くの知識を得る事になるのだが、
その書物の中で『反ユダヤ主義』と出会ったとされる。
■ガッツマン's eye後に、ユダヤ人大量虐殺という暴挙に出る、ヒトラー。
「我が民族こそ最高の人種である。故に他の人種は排除すべきである」
という偏った思想に取りつかれてしまった、ヒトラー。
しかし、彼がのめり込んだのは、
本当に『反ユダヤ主義』だったのでしょうか?
私たちは、ある貴重な書籍を発見しました。
『an an』の1920年7月号の巻頭特集を飾ったのがヒトラーだったのです。
当時、彼が本当に没頭していたものとは?
刮目せよ!!!
「早押しなら誰にも負けないッスよ!」その後、オーストリアの徴兵を逃れる為、幾度となく住まいを転々とするが、
第一次世界大戦が勃発した1914年、
ドイツ軍への入隊を志望し、バイエルン第16予備歩兵連隊に入隊する。
この大戦で、ドイツ軍の一員として戦った事が、
彼のドイツへの愛国主義をより一層高めた。
大戦後、ヒトラーは諜報部へ転属する。
いわゆるスパイである。
そこでの彼の任務は、当時台頭しつつあったドイツ労働者党の調査・監視。
しかし、そこで出会ったドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラーの、
『反ユダヤ主義』『反資本主義』の演説に感銘を受けて、
終いには軍を除隊し、ドイツ労働者党専従職員となる。
ドイツ労働者党が、ドイツ国家社会主義労働者党(ナチス)に党名を変えた頃、
党内では分派闘争が起き、クーデターにより党首ドレクスラーは失脚、
ヒトラーが新党首に指名された。
以降、勢力を拡大したナチ党は、右派政党の団体であるドイツ闘争連盟と共に、
イタリアのファシスト党が行ったローマ進軍を真似て、ベルリン進軍を企てる。
1923年、
ヒトラーから連絡を受けた前大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍も合流し、
遂にナチス党とドイツ闘争連盟は、ミュンヘンに向け行進を始める。
後に言う「ミュンヘン一揆」である。
この時ヒトラーは、
「国の英雄ルーデンドルフに対しては、警察当局も手荒な真似はしないだろう」
と踏んだのだが、予想に反し、警察は一斉鎮圧に打って出た。
かくしてミュンヘン一揆は失敗に終わり、ヒトラー自身も逮捕・投獄された。
この事件の裁判で、ヒトラーは、
弁解を行わず一揆の全責任を引き受けると主張した。
この戦略が功を奏し、
いつしかヒトラーはルーデンドルフをも超える大物と讃えられた。
出所後もナチ党は目覚ましい勢いで勢力を強めていった。
1929年、
世界恐慌によって急速に景気の悪化したドイツ。
与党『ドイツ社会民主党』への不満も追い風となり、
1930年の選挙では、ナチ党は第二党へと躍進した。
1932年には大統領選挙に出馬。
財界からのバックアップも得たヒトラーは、決戦投票の末敗れるも、
同年に行われた国会選挙では、ドイツ社会民主党を抜いて、
国会第一党に躍り出た。
すると、ヒトラーは、全権委任法をゴリ押しで可決。
つまり権力のすべてをナチ党・あるいは自分に集中させ、
議会と大統領の権力は完全に形骸化した。
さらに、ナチ党以外の政党を禁止するなど、
独裁政権を強固たるものへとしていった。
■ガッツマン's eye私は・・・ここで、ふと疑問に思った事がありました。
いくら独裁者と言えど、ヒトラーだって生身の人間。
弱い部分もあったと思うのです。
これだけ強硬に物事を進めれば、
批判・誹謗の声も相当なものだった筈。
そんな声を、彼はどうやって撥ね退けたのか?
その答えは・・・
『an an』1933年2月号の理想の上司(男性部門)2位に輝いた時の、
インタビューの中にありました。
彼が語った、
強いリーダーであり続ける為のコツとは?
刮目せよ!!!
「は~ぁ?聞こえませ~ん!」1939年、
ヒトラーは、宿敵であったはずのソ連と独ソ不可侵条約を締結、
直後にポーランド侵略を開始する。
対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦を布告、
第二次世界大戦の幕開けとなった。
ポーランド制圧後、デンマーク・ノルウェーと侵攻を続け、
フランスをも降伏に追い込んだ。
次々と勢力を拡大すると共に、
「日独伊三国条約」を結ぶなど親ドイツ諸国と関係を強化していった。
そしてヒトラーは驚きの行動に打って出る。
1941年、2年前に同盟を結んだばかりのソ連に侵攻したのだ。
しかし、次第に戦局は厳しくなり、
イギリスを核とする連合軍の猛反撃に遭い、イタリアは敗北を宣言。
1945年、日本にはアメリカ軍の核爆弾が投下され、
日本もアメリカに対して降伏を宣言。
そして、ドイツも連合軍の集中砲火を浴び、
第二次世界大戦は幕を閉じる事となった。
観念したヒトラーは、
自室に籠り、妻と共に自ら命を絶った。
■ガッツマン's eye暴走した独裁者。
そして自らが招いた、悲惨な末路。
自らの人生を振り返った時、
彼は一体、何を思ったのでしょうか?
『an an』1945年7月号で抱かれたくないタレント1位に選ばれた時のインタビューで、
こんな事を語っていました。
刮目せよ!!!
「味付け海苔なんて盗んでない」の一点張り■結論以上、『写真でひと言』でした!学校では決して教えてくれない、
歴史学者たちも頑なに口を噤んできた歴史の謎。
これからも、皆さんと一緒に紐解いていきたいと思います。
それでは、また次回、お会いしましょう!
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